2012年5月15日火曜日

3年前のコラム


多摩美の研修旅行のレポートが出てきた。
もう3年前だなんて。
恥ずかしいけど、昔ひっそりと、先生のためだけに残したコラムに助けられることもある。

















実はこのレポートを書く前にもう一枚書いた。日本におけるこれからの着物在り方、というタイトルで、いかにも宿題のレポートらしいものを、内容を締めくくる寸前でやめた。私が今回の研修旅行で一番心が動き、考えた事はそんなことではないなとおもったのは、銀座で行われた堤木象さんの展示に行ったからだ。
 堤さんのアトリエにお邪魔したとき、第一印象でこの人とわたしはどこか似ているのではないか、と思った。似ている、なんて若輩者の私がいうのは失礼に値する。似ているというよりも、人生経験がとても豊富で、人間の気持ちが理解できるからこそ、私の口から出る稚拙で曖昧な言葉でもその意味を、私の中にあるオリジナルに近い感覚で汲み取ってくれそうな気が勝手にしていた。絵が好きだから、みたいな単純な理由だけで作家をやってこれた訳ではなく、色々なことを模索して、ときには自己嫌悪もしたりして、それなりの絶望を経験した後にしか出ない人間性の丸みを持っているような、とても大きな何かを感じた。
 作品からも不思議な魅力が漂っている。堤さんの描く植物には作り手の傲慢さが感じられない。「私がこの植物を奇麗に描いた。」という作家の奢りのようなものがなく、「この植物のありのままの奇麗さを醸し出す為に、私は手伝っただけ。」という謙虚な姿勢が作品に澄んだ空気感を与えている気がする。
 一年生のときの基礎1で、「自分の絵画的表現についてかんがえなさい」というような課題がだされ、私はすっかり困ってしまったことがある。もっと単純に考えればよかったのかもしれないが、絵画的表現という曖昧な言葉を噛み砕く事ができずに、自分のつくった200枚ドローイングを見ながら、ひたすら自分の短い人生を振り返った。
 私の生きてきた中で生み出してきたものたち、ずっとやっていた書道、音楽、そして今関わっている美術、様々なものを思い出してみると、ある事に気がついた。私の潜在意識の中にはどうやら植物的なものへの憧れやそういった美意識があるのではないか、ということだ。これは単に「植物が好き」ということではなく、文字を書くとき、何か絵を描いたりするときのラインなどが、何も意識しなくとも植物を感じさせるような何かをもってしまう。このレポートをもし手書きでかいたとして、その普段つかう飾らない文字でさえもそれを感じさせるだろうということだ。
 そう考えるとすべての出来事に合点がいく。小学校六年生の書き初めの作品が、県大会に行ったときの事、私より上位の作品にはどれも石のような強いラインがあった。私の書はよく言えばしなやかで柔らかすぎる。しかし当時私は自分の書が一番のびのびしていて一番いいじゃないか!と思っていた。その作風の違いは一目瞭然で、審査員の好みもあるだろうに、同じステージに上れた事が不思議なくらいだったのをはっきりと覚えている。今考えれば、確実にデッサンの勉強が足りてない私が現役でテキスタイルに入学できたのはモチーフが植物だったからかもしれないともおもう。
 堤さんの植物を見たときにも、そういう感覚を感じたのだ。手が自ずと植物の奇麗なラインを拾えるような、潜在的な何かがある。難しく言ったが、つまり植物という題材が合っていて、だからこそモチーフの中に自分という人間をむりやりねじ込まなくとも、作品に不思議な魅力が帯びてくるような感覚だ。




 銀座の展示に行ったとき、随分とたくさん話をしてくださった。私の話もじっくりと聞いてくださった。
「空間を仕切る布という課題で、作品の方向が決まらず、テーマと、布と、染料と、技法と、時間と、モチーフとが全部点で、バラバラで、それぞれが線でどうしても繋がらなかったとき、うちの目の前にあるびわの奇麗さに圧倒されて、とにかくその感動をそのまま染め上げようとおもいました。構図も、デザインも、なにも凝った工夫はせず、ひたすらおいしそうなびわを一面に描きたいとおもって染めただけだったのですが、とても周りには評判が良く、拙いけれども何かが伝わったみたいで、クラスの子たちはそのあとびわゼリーをコンビニに買いにいくほどでした。植物という題材が自分にあっているのもありますが、いつも考えすぎる私は、ああ、こんなにシンプルでよかったんだ、と学びました。」
 私はしきりのときの話をした。先生は「すごくわかります。何もしなくても伝わるとき、いつも私は植物に助けられたなとおもう。」とおっしゃっていた。


 先生の話はどことなく哲学的で「作家という人生はきっと、とにかく自分との戦いで、自分の表現の限界がみえてくる度に、自分で乗り越えていかなくてはならない。そういう時は、どうしていますか?」という問いに対して「たまにどうしても落ち込んでしまうときがある。一番最悪に落ち込んだときは半年くらいどうしても仕事したくなくなっちゃって、仕方が無いから3ヶ月タイのお寺に修行にいきました。」という驚きの答えが返ってきた。
 「瞑想部屋に入って3日位して、急に光が射してきて、世界が本当にピカーーーーッとびっくりするくらいまぶしく光った。心が全開になった。そのときはもう嬉しくて嬉しくて仕方なかったけれど、その後が大変、心が全開になってしまったから、それこそいろんなところから、今まで意識してなかった頭の片隅からも、見えないようにしまっておいたネガティブな感情が尽きる事無く溢れ出てしまい、45日間動けないほど落ち込んでしまった。」
 本当にこんなことがあるのか。すごい。すごすぎて怖い。何が怖いって、そういう悟りを開いたような大らかななにかをすでにオーラで感じさせているからこそリアルで怖い。
 「そのとき、お坊さんに初めて会ったとき、最初に言われた。『あなたはとてもスピード感のある人だ。でも高速道路の運転免許をもっていないから、いろんなところにぶつかってしまう。スピードが出ているからすぐに壊れてしまう。』ぞっとするほど、何かを言い当てられたよ。多分、話していて、あなたも、私と同じでスピード感のある人だと思う。けどまだ免許はもっていないね。これから免許をとっていけばいいよ。」
 
  私にはまだきちんと理解できなかったけど、「年寄りの戯言です。頭の片隅にでも置いておいてください。これから生きていくうちにもしかしたら意味が分かるときがくるかもしれない」とおっしゃってくださった。
 堤先生との出会いで、私の中でずっとぶれていたものが少しくっきりした気がする。どっちを向いて作品をつくったらいいのか少しわかったような不思議だけど前向きな気持ちだ。私もこれから大人になるにつれて、先生のようなかどの取れ方をしていきたいとおもうし、その度に作品に変化があればいいなとおもう。

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