ちょっとしたタイムマシーンのような気持ちでこのブログをあけた
ここ数年、何かを書き記したり、手繰り寄せ言葉で心情を羅列したりという行為からは離れていた。
言葉を紡ぐというのはなかなか体力がいる。人に話すのも同じく。
気づけば同じような言葉しか使っていない、なるべくシンプルに話せとこの社会のだれもがいうからだ。
なるはやで、明確に。結論から話すのがマナーの世の中で、若い子たちの話を遮りもっと要点をまとめろと捲し立てるようなつまらない大人になった。彼女たちの中にかつての自分を見ながら、「ああ、気持ち、わかるよ。あと数年したらでいいから、どうか大人をゆるしてね。」と言い訳をしたくてここにきた。
私は33歳になった。
相変わらず生地屋で油を売っている。
先日、いや、そうは言っても昨年(ババアには十分先日だ)荒木に「圭子は言葉の人だから」と言われたことが頭に残っている。心ではない、脳味噌のシワに引っかかっているのだ、痒くてもとれないところに挟まってしまったのだ。
本を読むこともめっきりと減り、自分の目の前に広がる世界のことだけで一喜一憂しているとうすうす気づいていた私は、なんとなく、なにかいつもと違うことを始めないといけない気になってこんなことをしている。もう寝ればいいのに。
明日は何をしよう、絵でも描こうか、なんのために?
こういう自分はほとんどリタイアしたお父さん連中と同じだなと思う。
親父のリタイア後はどうなってしまうのか、家族のためにと働くことで彼の人生は良い意味でも張り詰めていたから、いざ自分だけのために時間を使えと言われたら家にずっといてあっという間にボケてしまうだろう。
目的を見つけなければと思い画策はしているが、その様はまさに油を売り続けて言葉すら亡くした私とそっくりだなと思う。
とりあえず今日のところはもう寝よう。