懐かしい布と言われておもいだすものには、寝るときいつも一緒にいたガーゼやぬいぐるみのにおい、昔すんでいた家ののれんの色あせた表情など、どこか幸福感とノスタルジーにみちたものが多い。そしてそれは布とはなんたるかを学んでいる私自身の素質のひとつであり、当たり前なのかもしれないとも思う。
その中で脳裏に黒々と焼きつきこびりついてしまったものもある。忘れたくても忘れられない、今でもよく思い出す子供の頃のエピソードとそれにまつわる布についてのお話をしたい。
まず私には7つ上の兄がいる。つまり6年間通う小学校でさえ一緒に通学する瞬間がなく、ランドセル以外すべてがお下がりであった。私自身それに関して特に何も思っていなかったが、小学校3年にあがると同時に購入するソプラノリコーダーだけはすこし友達がうらやましかった。
兄の使い方が悪かったのだろう、リコーダーのケースはぼろぼろで見窄らしい。辺りを見渡すと、届いたばかりの新品のリコーダーに目をきらきらさせるクラスメイトたち。もちろん傷一つなく、きれいに各々の名前が彫られ、さらにはその名前が掘られた溝に金色の彩色が施された状態で届く。一方で、私のリコーダーの裏にある、おそらく父が手で掘ったであろう兄の名前は消えるはずもない。
そんな私を不憫に思ったのか、母がケースを作ってくれた。薄いベージュの地色にピンクや黄色の大きな花柄がプリントされている生地だった。使いやすいようにとピンクの無地の裏地と合わせて綿をつめ、丁寧にキルティングに仕上げてあった。心が華やぐ生地がぼろぼろのリコーダーを包んでくれたおかげで子供心になんとなく自信が湧いたのを覚えている。教室の後ろの一角にあるリコーダー置き場の中でもひときわ目立つおかげですぐに自分のものだとわかった。
さて、私の小学校では始業前に「朝自習」という、先生たちが朝の会議をしている間自習する時間が設けられていた。そして当時の私の担任は非常に変わり者だった。今思えばいつもそれなりに理にかなったことを言うのだが、過激な指導内容から保護者からの苦情は絶えず、通常なら2年間担任を務めるところを、彼の場合同じクラスを1年間しか担任をさせてもらえないことで有名だった。
朝自習の内容については先生がその都度考えてくれるのが普通だが、うちのクラスはもちろん違った。
「良い朝は良い音楽から。」という彼のポリシーからだったとおもう。うちのクラスの朝自習は1年間毎日「音楽の授業」だった。自習というからには授業をするのはもちろん先生ではない。音楽係のリーダーだ。そして私は不運にもその音楽係の係長だった。
9歳になるかならないかの少年少女を前に、同じく9歳の私が音楽の授業をとりしきる。合唱曲はパートを振り分けて練習したり、まだ不慣れなリコーダーはみんなに教える為に先取りして練習した。30分弱の間だが、1年間毎日内容を変えながら、みんなを飽きさせることなく有意義な時間にするというのは非常に難しい。何しろ相手は小学校3年生。私の必死の努力を理解する知能と優しさがまだ無い彼らの間には、しばらくすると教室の隅から隅へと消しゴムが飛び交う。大人しくなんてしている訳が無く、毎朝、猿山に向かって指揮棒を振るようなものだった。
そんなとき、まだ幼い私は彼らに対して声を荒げることしか方法を知らなかった。集団の意識をひとつにまとめて、時間を前進させることがこんなにも難しいのか。クラスの前でひとりいつも孤独を感じた。でもそんなものに負けてはいけないと意地になっていく。それが1年間続くと次第に感覚は麻痺していき、皆の統率をはかりたい私の声はどんどんと大きく荒くなっていった。「どうしたら皆がたのしく音楽を学べるか」ではなく「どうしたらみんなは自分の言うことをきくのか」ということが無意識のうちに私の頭の中を大きく占領していった。
3学期、3年生も終わりにさしかかったころである。近頃の朝自習はやけに騒がしかった。理由はわからない。とくにないのだろう。飽きるのも当然だ。そうはわかっていても我慢の限界だった私はとうとうクラスの前で過去最大の雷をおとした。というかヒステリーに近かったと思う。どんな台詞を吐いたかは覚えていない。ただとにかく「なんで自分がこんなに毎日一生懸命になっているのに皆はまじめにやってくれないのか」みたいな内容だったと思う。なんであたしだけ、なんで、あたしだけ毎日こんなにつらい思いをしなくちゃいけないんだ、と心の中で叫んでいた。教室の中に沈黙がおりる。しばらくして、ひとりの女の子が教室の後ろから叫んだ。
「だって圭ちゃん、いっつも怒ってばっかじゃん!」
私は教室の前で泣き崩れた。とにかく滝のように泣いたと思う。
その瞬間そういわれて初めてわかったのだ。たしかに、私は毎日怒ってばっかりだった。自分のことに必死で、とにかく無我夢中で、皆の気持ちなんてちっともわかってなかったのである。リーダーがこんなんじゃ、皆がついてくる訳が無い。うんざりするに違いない。そんなの当たり前じゃないか。とにかく自分が情けなくて恥ずかしくて仕方なかった。嗚咽がとまらない。
泣いている私をたちまち女の子たちが囲う。小学校の頃は、誰かが泣きはじめればその子は完全に被害者で、すなわちその子を泣かせた加害者がいることになり、みんなで加害者を徹底的に責めるのが正義だった。泣いている子に対して「だれがやったの?」というのが決まり文句で、私がなんで泣いているのかわからない子がほとんどだった。「大丈夫?なんで泣いてるの?」「わかこちゃん、ひどいよねあんな言い方」
そんな風に言われてまた改めて、これが小学校3年生なんだと思った。私は毎日9歳を相手にしていたんだ、それを理解して過ごすべきだったんだ。そして子供相手にこんなことになってる自分もまた子供だったのだ。
だれがやったとか、そういうことじゃないんだよ、あの子の言うとおりだったんだよ、私は自分が恥ずかしくて泣いているんだよ、とは彼女たちに説明する気にもならない。女の子たちに上辺だけの慰めの言葉をかけられる度に心がポキポキと音をたてて折れていくようだった。そして家に帰って泣きながら母にすべてを話すと、ただひとこと、「出る杭はうたれるのよ」とだけ言った。
「あなたはがんばった、自分を責めすぎなくていいよ」という母の精一杯の言葉だったとおもう。
しかし9歳の女の子にはあまりに残酷すぎる運命が待っている。当然、朝自習は次の日もあるのだ。昨日はなんにもありませんでした、みたいな顔をして強がることしかで出来無かったとおもう。教室の後ろのリコーダー置き場から自分のリコーダーを手に取る。そのとき、昨日の母の言葉がよぎった。
「出る杭はうたれるのよ」
わたしのひろきわ目立つリコーダーのケースが目に飛び込んできた。もちろん私のリコーダーのケースと昨日の出来事は全く関係がないのはわかっていたし、母の言葉もきちんと理解したつもりだった。が、その光景があまりにも皮肉だったのだ。華やかなプリント生地が私の心をしめつけた。
残念ながらケースの現物は残っていない。よく覚えていないが、多分後に自分で捨てたのだと思う。しかしどんな生地だったかははっきりと脳裏に焼き付いている。
この出来事は私の記憶の中で非常に思い出したくない出来事として保存されているが、しかしこれを教訓にしているからこそうまく言った事もあったのも確かだ。
しょっちゅう思い出しているからあまり懐かしさは感じないのが本音である。

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